民芸館の仕事
目利き 集め 列べ 話し 作り 広め 暮し 喜ぶ
誰でも美しい良い暮しをしたいのである。民芸館の役目はそれを追い
求めることである。それも、金や時間のかかる、ぜいたくな暮しや趣味
のきれいごとでなく、金も時間もかけないで、誰でも何時でもできる、
美しい良い暮しを求めてゆこうというのである。
そこで、民芸館にならべてある物を見ると、いずれも皆、他所行き、
みせもの、飾り物、趣味品のたぐいではなくして、われわれ一般の者の
暮しの中で日夜働いてくれる物ばかりである。そういう働き物のことだ
から、いずれも皆、健康でたくましく無駄のない威張らない美しさを備
えている。こういう物は一般の民衆の間で作られて一般の民衆の間で働
くものなので「民衆的工芸品」つづめて民芸品という。
さて、われわれの暮し方や考え方を省みてみると、とかくわれわれは
普段の暮しをさげすみ投げやりにし、毎日使う道具のえらび方も、ぞん
ざいにしがちである。普段には美しい物、良い暮しはないものと考え、
美しい物を普段からはなれたところばかりに求めている。たとえば、床
間や茶室を美しくしたり、正月や法事に立派なものを持ち出したり、他
所行きに美しい着物を着たり、音楽会や展覧会に技芸を楽しんだりして、
日常の生活から離れているほど美しさは高級で、日常に近いほどいやし
いものと思いがちなのである。
けれどもわれわれの日々の暮しこそ大事であって、毎日が美しく良く
ありたいではないか。美しい暮しをわれわれの居間や台所、仕事場や事
務室、店や田畑等、我々が生きている、その場で現したいのである。
そういう大事な日常の暮しに、なくてならぬものはいうまでもなくも
ろもろの道具類である。大は建物から小はペンやボタンの類にいたるま
で、真に多くの物にわれわれは取りかこまれ、それらに支えられて生活
を運んでいる。朝から晩まで、これらのものは我々の暮しに結びついて、
暮しを美しくも汚くもし、われわれの体と心に無言の影響を与えている。
それらの物が健実な生活にふさわしく、心に叶うような美しいものであ
ってこそ、われわれは美しい良い暮しをしているということができる。
幸いにも民芸品は日夜の暮しの中の働き物としてたくましい健康な美
しさ、無駄な飾りのない簡素な美しさ、材料の選び方や作り方の誠実な
美しさ、そしてどんな場所でも使われる威張らない美しさを備えていて、
誰でもいつでもの暮しにじかに結びついている。そして、われわれの生
活を支え励ましている。それで民芸館は、このような物を作り且つ使う
暮しが美しい、心に通う良い暮しだと考え、このような物や考えや暮し
を、ひろく世の中に行き渡らせたいと切に願っているのである。
だから民芸館は物産館や郷土館、風俗や歴史の博物館でなく、また、
昔を懐しむ骨董品の陳列場でもない。民芸館はいかにもして、誰でもい
つでもの美しい良い暮しを押し進めるため、たとえば、子供の紙挟みや
家庭の篭を買う時でも、スウェターを編む時でも、家を建てる時でも、
正しい美しさの考えや眼を養い、物を作る知恵や責任や喜びをひろめ、
国民全体の生活文度を高めて行こうと希っているのであって、いわば真
生活運動の根城なのである。
それで以上に述べたような目的のために、民芸館はこれから述べる十
二の仕事をたゆまず励んでいるのである。
集めること
第一の仕事は「集めること」である。民芸館はその名の示すとおり民
芸品を集める。民芸品というのは前に述べたように「民衆的工芸品」の
つづまった語で、われわれ一般の民衆が日々の暮しに使う工芸品をいう。
大は建築から小はペンやボタン等にいたる、すべての衣食住の要具全般
を含む。そしてこれらのものを作るのはすべて名もない民衆であって、
手で作ったものも、機械を利用したものも含んでいる。だからここに集
める物は、有名な芸術家や名人などが、自分の気の向くままに作る、数
が少なく、値段の高い美術工芸品や、趣味品ではない。
集めるためにわれわれはたえず国内は勿論、海外の各地を旅して、生
産者から、店頭から、或はまた個人から買い取っているのである。また
しばしば寄贈の品を受けることもある。
選ぶこと
第二は「選ぶこと」が大事な仕事である。これはすでに集める時に含
まれている大事な条件であるが、もろもろの民間工芸品の中から「美し
い物」を選ぶのである。なぜなら民芸館は、まえがきに述べたように、
日常の生活に交わる美しさを大事な条件としているからである。それな
ら、どんな条件のものが生活的に美しいか。
およそわれわれの使う道具類が作られる動機には、次の四つの事情が
考えられる。すなわち、利慾のための生産、趣味のための生産、観賞の
ための生産、使用のための生産である。これらの中、どれがわれわれの
日常の暮しの中の「美しい物」として現れるか。どれを捨てて、どれを
選び取るか、実に大事な問題である。われわれはまず「利慾のために」
作られる物を取らない。利のためとは、品物の製造者が大工場であれ、
家内仕事であれ、物を作るのを自分の利慾の手段としているものであっ
て、仕事の誠実さや使うための親切を求めず、材料や手間を惜しみ、虚
飾によって売りつけようとするものである。こういう物は使い出すと同
時に、傷み易く、汚くなって、使う者が迷惑を蒙り、がっかりさせられ
る物である。いわゆる、店先の市場価値をねらうだけで生活の使用価値
を顧みない製造である。このような物はどんなに多くあってもわれわれ
の日々の生活を美しくせず、むしろ卑しく汚くするばかりである。
つぎに「趣味のために」作られる物も取らない。趣味品といえば、利
慾を思わず、実用にとらわれず、風雅を求めて作るというのだから、な
にか高尚な物が生まれるように思いちがいされるけれども、趣味品は初
めから働く意志がなく一人よがりの遊びに終始し、思い付きや風変わり
を娯しみ、しばしば感傷の誇張や洒落に堕ちる性質をもっている。世間
には雅物と称する趣味品が多くあるが、ほとんど気取っていたり思わせ
ぶりの物で、平常な健康な品物ではない。だから、日用の働きには到底
耐えられないのである。観光土産品と称するものに見かけるもてあそび
のものも、質実な日常の美しい友としての確かさをもっていない。末世
の茶道に関する物にも趣味品が多く、初代の茶人たちが選んだ健康な民
器とはずいぶんはなれたものとなっている。
次に「観るため」の物を取らない。観るための物とは、工芸品であり
ながら美術品に近づこうとする、いわゆる、美術工芸品をいう。絵画や
彫刻がするように工芸品において眺める美しさを求めるのである。だか
ら品物は美のための手段にすぎず、工芸本来の用をさげすむにいたる。
その美しさは観賞を主として、荘厳、華麗を標準とし、或は技巧の複雑
なことや繊細なこと、しばしば奇嬌なことさえ求められている。そして
これらの物は数の少ないこと、値段の高いことで、ますます一般の生活
から離れ、社会性の乏しい物とならざるを得ない。さらにこれらの物に
よって、作者は自己の見識や趣向を強く主張し、作品に名をのこそうと
するから、製作は作者のためであって使う者のためではないのである。
しかも、でき上りはほとんど個人の力量の域を脱せぬ不自由な窮屈なも
のとなり、日常の友としていっしょに暮したいような、公な安らかな美
しさを宿さない。
以上の三つの事情のものは、すでに考えたように、みなわれわれの日
常生活の美しいよい友だちではないことは明らかだから、生活を美しく
とねがう民芸館は、残されたもう一つの「用のため」の物を選ぶほかは
ない。さきに「美しい物」を選ぶといったが、それは「用のため」の物
を選ぶことと一致するのである。用の物が美しいのだ。用即美である。
すなわち工芸の世界では用のための物が他のいずれの場合よりも美しい
のである。われわれの日常生活に直結する品物は、用(働き)のために
健康で簡素な美しさとなって現われ、虚飾や技巧の美は、おのずから退
けられて、平常で簡素な美しさが標準となる。
こういう物を作る人は名もない工人たちであるから、自分の趣味や主
張に溺れず、広く日常の生活に役立つように、材料や手法を吟味して誠
実な仕事をするほかはない。そこには美は求められていないのに、よい
材料や親切な手法がおのずから招く構造の美しさや、多く作られるため
の腕前の確かさ、謙遜な働き手としての健康で無駄のない美しさが宿ら
されるのである。だから民芸館の選ぶものは、民衆の用のために民衆の
間で作られる、純粋な民芸品ばかりである。
守ること
第三には「守ること」が仕事である。元来、民芸品は日日の雑用品で
あるから、たえず消耗される運命をもっているが、それ以外に多くの物
が心ない人の手から消えやすい。それは、人はとかく新奇を好み、流行
を追い、古い物をもはや値打のない物のように早合点して捨て去るから
である。また変化することを物の進歩と誤解して古い物を顧みないのも
一般の傾向である。進歩したといわれる品物はただ量や見せかけで変化
しているだけで、質は低下している場合が多いにもかかわらず、古いも
のの質を思わずに捨て去りやすい。それゆえ、われわれは捨て去られ亡
ぼされ行く古い美しい物を守らねばならない。守ることはまた、古い物
の真価を守ると共に、それを作ったり使ったりする伝統を守るという意
味をも含んでいる。伝統は祖先が永い間の経験で積み上げた知恵の遺産
である。材料や手法や使い方の伝統は、いわば祖先がわれわれの暮し方
に今も協力してくれる遺産だから、それをわれわれも守って祖先とも協
力し子孫へも協力するのである。元より伝統にも誤りがあるゆえ、それ
を見分けねばらならいことはいうまでもない。でないと、ただ古いこと
への懐古趣味におちいってしまうだろう。
だからわれわれが守るというのは、古今を通ずる正しい物や立場を守
るということなのである。それは美しい真実な生活を守ることに当る。
列べること
第四は「列べること」である。選ばれた美しい品をどんなに列べるか
について、民芸館はたえず苦心し努力をしている。その列べ方によって
品物は一段とその真価を発揚し、多くの陳列品が全体として統一ある美
しさを現わす。ちょうど内容のある単語を美しく綴り合わせることによっ
て一連の立派な詩が生まれるように、陳列は即物の詩なのである。
まず民芸館の建物自体が重要な陳列の基である。ただ物を陳列するだ
けの入れ物でなくして、内外の形式、配置、色彩、光線などが中の陳列
品に呼応するよう考慮されている。内部の戸障子や陳列棚、机、椅子、
電灯のような設備も同じく陳列の中に加わっている。
そして展観の品々はこのような建物や設備の中で、背景や光線に応じ
て、適当な配置に列べられている。形の大小、色の変化、材質の相違な
どと共に、品物の地方や時代にも心を用いねばならない。だから、すで
に選ばれた美しい品物は、列べるために、もう一度選ばれるのである。
それゆえ、多くの所蔵品の中から、その時の陳列に必要な物が選ばれる
こととなる。それでしばしば陳列替をして、所蔵品を順次に見せるよう
につとめている。
また、民芸品をどんなに用いたら良いかを示す陳列をも試みる。モデ
ルルームなどがその例である。ここでは内地や外国の地方的な暮しぶり
や、時代の要求に応じた様式を示すこともある。また民芸品の作られる
有様を示す陳列をも試みている。
見せること
第五は「見せること」である。或は共に見ることである。元より陳列
するのは展観に供するためであるが、重要なことはよく見てほしいこと
である。民芸館では品物にあまり委しい説明をつけない。それは説明に
たよらないで品物をじかによく見ることがなによりも大事だからである。
元来、日本人はものをじかに見る眼力にとぼしく、多くの場合、品物の
名前や由緒や値段などにたよって見ようとする。そして目は知識によっ
て濁らされてしまうのである。しかし、われわれは日常の用具の美しさ
に接するため、事柄によらず、物柄を直接に見なければならない。
実は民芸品に選んだ品物には見せるために作られた物は一つもないの
であるが、見せるために作られた物よりも心に通う美しい物となってい
る。その物柄のよさを直接によく見たいのである。民芸館で「見せる」
というのは、見世物をするのでなくして品物をじかに見る目を養い、見
る喜びに人を誘うことを指している。それは暮し方の「目利き」を作る
ことにも連なっている。
調べること
第六には「調べること」が仕事である。品物はどのような「材料」で
作られているか、その材料の生まれ方、採り方など調べ、また、どのよ
うな手法で作られているか、その「技術」を調べ、さらにどのような目
的に作られているか、その「用途」を調べるのである。
しかし、調べることによってわれわれは事柄の「ものしり」になろう
とするのではない。調べることによって、先に「見ること」で、じかに
感じた美しさの根拠を知るのである。物が美しくなるには、必ずしから
しむる法が働いていて、偽りない材料を用い、正当な手法を採り、健全
な用途や心に叶う物であることが、調べることによってわかってくる。
したがって、この調べは「作ること」に大きな指示を与えてくれるだろ
う。
また、材料や手法や用途を調べることは、とりもなおさず、その品物
の生まれた生活の環境にも関連して、その時代や地方の風土や習俗にも
目を拡げることとなる。その時代や国土が健康であるか否かは、その工
芸品を調べてみると一番よくわかるのは興味ふかいことだ。
また材料があっても手法や用途を知らぬ地方や時代があったり、また
その反対に技術があっても材料のない場合もあるので、その事情を調べ
ることも必要である。この調べる仕事のためにも、われわれは各地を旅
行したり、品物を集めたり、作ったりして既に久しい努力をつづけてい
る。
学ぶこと
第七には「学ぶこと」である。調べることによって得るものはすべて
学びの種であるけれども、その学びの態度は常に公でなければならない。
わが国には古来「秘伝」というものがあって、その技術が公開されず、
特定の弟子や血縁にのみ教えられ学び継がれたのである。これは一面、
法則の純正を保ち、技術の乱用を防ぐためのものであったが、また一家
一統の利益を守るためでもあった。この一統の人のほかはその法則を知
らず、世の中はその恵みから閉ざされてきたのである。いかに多くの良
い物事が秘伝の系人を失ったために消えたか知れない。悲しむべきこと
だ。民芸館の学びは公の学びである。調べて公から受けたものを、秘す
ところなく公開して学ぶのである。
さて、学ぶことは、とかく知識に傾き勝ちであるが、われわれの学び
の大事な一面は「道を学ぶこと」にある。先に「選ぶこと」の中で美し
い物が、利のためや、趣味や、観るための物の中に見出されずして、用
のための物の中に見出されることを知った。用とは奉仕である。働いて
仕えるものに深い美しさが宿らされるという、その美しさの道を学ばね
ばならない。趣味に溺れ自負心に立つ者の作よりも、無名の民衆の永い
伝統に根ざし、個我を解放された大きな力の中で、たのもしい仕事をし
ている道を深く学びたいのである。それは物の心の学びである。
説くこと
第八は「説くこと」である。先に「見せる」ところで、じかに見るた
めに、品物の委しい説明をしないといったが「説くこと」は必要な仕事
なのである。そもそも民芸館の成立の意味だけでも、大いに説明を要す
るだろう。それは民芸運動の物の見方、考え方は一般の態度といちじる
しい相違があり、民芸館の品物の選び方は、在来一般の見方と大いに異
なる立場に立つものであるから、その理解をひろめるために説くことは
大事なつとめなのである。それに、無名の工人たちが謙遜に黙している
とき、誰かが代ってその徳を説くことは大事なつとめである。
しかも「民芸」という語が今は流行となっておりながら、言葉も品物
も多くの誤解をうけているから、説くことは怠ることができない。それ
ゆえ、われわれは言葉や文書による解説をつとめねばならない。求めに
応じて説明もし、講演に出向き、さまざまの出版もしているのである。
作ること
第九には「作ること」である。日本には今でも相当多くの正しい民芸
品が作られているが、次第にそういう物が亡び行き、良い物を使いたい
人々の手に渡らなくなっている。それゆえわれわれは作る仕事を進めね
ばならない。それには、古くから伝わっている仕事を保護し、奨励する
こと、時代と共に変わる暮し方に合う物を考案し量産することをも努め
ている。そしてこれらの物を広く世に行き渡らせ、日々の暮しに役立た
せて、生活の中に美しさを織り込ませたいのである。
民芸館は、とかく古い物を集めて楽しんだり、誇ったりしているとこ
ろのような誤解をうけやすいが、決してそのようなところではなく、こ
こに集めたような物をできるだけ多く、安く、広く行き渡らせるために
一番多く心を用いているのである。われわれは世の中を美しい品で充た
し、すべての人がすべての所で美しい生活をするように念願して止まな
い。それゆえ、物を作ることは民芸館の最大の仕事になっている。その
ため先に述べたような保護や考察につとめ、また、附属の工芸研究所な
どで工人を養い、製作に励んでいるのである。
作る仕事が欠けるならば、歴史や風俗の博物館に沈み、懐古主義にも
陥り易い。美しい物を民芸品生産によって具体的に世人に提供すること
は民芸館の大きな仕事である。
使うこと
第十には「使うこと」が仕事である。作るのは使うためである。既に
いったように、趣味や利慾にむしばまれた品は、われわれの暮しに真実
な美しさを導き入れてくれないのであるが、用のために作られた品は、
われわれの暮しに美しさをじかにむすびつけてくれる。そしてそれらの
物は使われてこそ美しさを増すのだから、使われたい、働きたいと身が
まえしてわれわれの用を待っているのである。われわれはこれらの物を
使うことによって、初めてその生まれた使命を全うせしめ、その美の真
価を発揮せしめるのである。道具を使うことでは、茶道は早く一つの法
を立てたが、惜しいことには茶室に限られている。われわれは日常生活
のすべての場面に美しい器を配置して、いつでも誰でも使うように心掛
けるのである。
民芸館ではその建物や棚やテイブル、椅子のような設備の品々、ある
いは文房具や掃除の道具るいにいたるまで、正しく美しい品を使うこと
に十分心を配っている。例えば、障子に貼る紙は純粋な生漉の和紙を用
いて、丈夫さにも衛生にも美しさにも叶うようにしているのである。
暮らすこと
第十一には「暮すこと」である。使うことは当然暮すことにつながっ
ている。民芸館はただの陳列場なのではなく、暮しの場である。モデル
ルームで暮し方の設計や方式を示しているのも、事務室も、倉庫も皆
「暮し」なのである。どんな建物や道具で、どんなに暮したらよいか。
この大きな問題が民芸館の大きな課題であり、答えである。これは世間
一般の暮し方に対しても負っている民芸館の大きな責務であり、国民の
生活態度にかかわる大きな使命なのである。だから民芸館を見る人は、
個々の品の列べ方、使い方、暮し方をよく注意していただきたい。
喜ぶこと
最後は「喜ぶこと」である。民芸館は喜びの場であり、美の喜びこそ
生命である。世界の無数の博物館は、一々その主旨をもっているが、民
芸館は美の喜びが本領である。しかし、それは偉大な作家や貴重な珍品
や奇異な姿の美を喜ぶのではない。日々身近くわれわれの心に触れる、
温かく安らかな美に人を誘い、共に喜ぶのである。洗われた絣、磨かれ
た鎌、抜きこまれた盆も、用の美を輝かせている。このような民芸品に
備わる豊かさは、乏しくかよわい民衆の中に与えられた天の恵みである。
強く傲る者によらず、弱く謙る者によって、心に通う深い美しさが生ま
れるありがたい事情を崇め、喜ばないではおられない。その喜びは民衆
への福音であり、民芸館の喜びの基である。民芸館は列べることで即物
の詩人であるが、喜ぶことでもまた、即物の詩人である。
むすび
「生活を美しく」とねがう民芸館の仕事は、以上十二に分けて申し述
べたように、みな、直接物に即している。けれどもまた、深く心にもか
かわっている。だから、物と心とが一つになった美しい良い暮しを求め
ることが、民芸館のたゆまず勉め励む仕事なのである。物を玩んで志を
喪うのでなく、物に即して生活を美しくし、志を立ててゆくことこそ、
民芸館のねがいである。
(打ち込み人 K.TANT)
【財団法人倉敷民芸館刊行 第7刷 昭和61年5月】
(EOF)
編集・制作<K.TANT>
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